fc2ブログ
1
3
5
6
7
10
11
12
13
14
16
17
19
20
22
23
26
27
28
29
30
  11 ,2022

プロフィール

mtsuchiya

現在、作家、ジャーナリスト、エッセイスト、ウイスキー評論家、日本初のウイスキー専門誌『Whisky Galore』(2017年2月創刊)の編集長として活躍中。2001年3月スコッチ文化研究所(現ウイスキー文化研究所)を設立。

月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR

 

「フェスのおみやげボトル3種について…」
 フェスのたびに、そのフェス限定のオリジナル〝おみやげボトル″(100ml)をつくっているが、その中には幻となったものもある。それが2020年夏に開催予定だったジャパニーズウイスキーフェスだった。コロナで中止となったものだが、そのフェス用に特別エコボトル、ネックストラップ、そして3種のおみやげボトルをつくった。

 ボトルとストラップについては、今度のフェスでも少量販売するが、その時のおみやげボトルは残っていない。私の手元にも、1本ずつあるだけだ。あえて残したのは、それが幻のフェスだったせいもあるが、今までつくってきた100を超えるオリジナル・おみやげボトルの中でも、私の一番のお気に入りだったからだ。

 その3本とは「天ノ原」と「春日」と「三笠山」と名付けられた3本で、今となってはなぜそう名付けたのか思い出せないが、これはもちろん阿倍仲麻呂の『天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも』の句からである。阿部が遣唐使船で唐に渡ったのは西暦717年で、弱冠19歳という若さだった。その後、長安の都で唐の皇帝、かの有名な玄宗皇帝に仕え、日本でいう官庁の局長クラスにまで登りつめている。その阿部が、望郷の念やみがたく、帰国を決意したのが751年で、入唐から35年近くが経っていた。当時の遣唐使船が出航したのは揚子江の河口の明州という港町。明日は帰国の途につくという、はやる気持をおさえ、詠んだのが天の原…の句だった。

 この時の遣唐使船は4隻。第1船に阿部が乗り、第2船には実は鑑真が乗っていた。鑑真は4度の日本への渡航に失敗し、すでに眼も失明していたが、渡航をあきらめず、この時、阿部と同じ遣唐使船の第2船に乗船していた。当時の遣唐使船の渡航成功率はどのくらいだったか分からないが、この753年の時は、日本にたどり着いたのは鑑真が乗った第2船だけで、阿部が乗った船は安南、現在のベトナムに流された。阿部は長安に戻り、官吏として再び生きる道を選んだ。亡くなったのは770年で、享年72。長安郊外には阿部の業績を称える碑が建てられている。

 その鑑真が漂着したのが、鹿児島県南部の坊津で、そういえばマルス津貫、佐多宗二商店の取材の際に、その上陸地点を見に行ったことがある。そこで初めて上記の事実も知り、帰国を果たせなかった阿部仲麻呂の句を、ジャパニーズフェスのおみやげボトルに選んだのかもしれない。

 実はこんなことを思い出したのは、現在日経新聞の朝刊で連載されている阿部龍太郎氏の『ふりさけ見れば』が、ちょうどそのくだりに差し掛かっているからだ。昨日、24日の文章の最後に鑑真一行が第2船以降の3隻に分かれて乗り込む様子が書かれている。ちなみに今度のフェスのおみやげボトルも3種だが、ラベルはまったく阿部とは関係がない。日本のシンボルともいえる富士山と、来年の干支であるウサギをあしらっている。

 鑑真和上の像がある奈良の唐招提寺には高2の時の修学旅行以来行っていない。1971年のことだから、もう51年も前のことだ。近いうちに奈良に行って春日大社や三笠山、そして唐招提寺も訪れたいと思っている。もちろん中国に行って西安郊外にある阿部の碑も見てみたいのだが…。

221125-1.jpg

221125-2.jpg

221125-3.jpg



* ウイスキー文化研究所公式HP
* ウイスキー文化研究所公式twitter

スポンサーサイト